2012年03月30日

ハイサイおじさん

ハイサイ!

利爺は仲間内で
沖縄方言の挨拶言葉「ハイサイ」を使っていることが多い。

「ハイサイ」は
「おはよう」「こんにちは」「こんばんわ」とは異なり、
使う時間を気にする必要のない「ハーイ」や「ハロー」に近い、
気軽に使える挨拶言葉である。

朝・昼・晩「ハイサイ」の一言で済む。

昔からの挨拶言葉であるが、
方言を使うことが少なくなった近年の沖縄では、耳にするのも少なくなっている。

「ハイサイ」は男性用語で
女性の方は「ハイタイ」になる。


3月29日(火)の県紙「沖縄タイムス」に

haisai.jpg
     ▲ 画像をクリック。元画像が開きます。

公の場所で方言の挨拶「ハイサイ」を使う

「那覇市ハイサイ運動」

を4月1日から始めるという記事がみられた。

方言で挨拶する主旨は
伝統文化を支えるウチナーグチの普及拡大にあり、県内初めてという。

  【注】記事中の方言

   「ウチナーグチ」 
       ウチナー  
       グチ     
   「ハイサイ」    
   「イッペー」     
   「ニフェーデービル」
 

= 沖縄方言
= 沖縄
= 口(くち)
= 上記
= いっぱい、大変、非常に
= 二拝して侍る(はべる)
= ありがとうございます

先日、国保の切り替えで市役所の窓口に行った時点では
方言の「ハイサイ」はなかったのではと思っている。

「ハイサイ」が
沖縄方言の挨拶言葉とは知らない他府県の方は多いだろう。

県内の若い世代にとっても
ほとんど使わない「死語」に近いと言ってもいいかも知れない。

しかし方言の「ハイサイ」は知らなくても
テレビで使われた志村けんの「変なオジサン」は全国のほとんどの方が知っているだろう。

歌詞の「変なおじさん」は
沖縄の歌(新作の沖縄民謡)の替え歌で

NHKの紅白歌合戦で「花〜すべての人の心に花を〜」を披露した
県出身のミュージシャン「喜納昌吉&チャンプルーズ」の
喜納が高校生の頃に作った「ハイサイおじさん」が元歌になっている。

高校野球の応援歌にも使われた歌でもある。

「那覇市ハイサイ運動」の開始段階で
急に「ハイサイ」と挨拶されたら、戸惑う方が多いだろう。
方言を理解する利爺でも一瞬躊躇してしまうだろう。

「挨拶」の意味を辞書で確認すると
 『人と会ったとき取りかわす儀礼的な動作・言葉』
と説明されている。

挨拶は相互の関係によって成り立っているものと思っている。

その運動によって
「ハイサイ」 → 「ハイサイ」「こんにちは」
と最初はぎこちなくても応対返事があれば
目的とする主旨はうまくいっていると見ていいだろう。

引用した上記の記事を読んだ方には

@伝統文化を支えるウチナーグチの普及拡大が主体となっている。
A公の立場にある窓口での対応の改善として方言の挨拶「ハイサイ」を使う。

内容に異なる捉え方があるだろう。

個人的には公の窓口は苦手である。
公務員は力を元に押し付けが強いというイメージを持っている。

そのようなイメージのため、
窓口に行くと、どうしても構えてしまう。

市としても長い年月をかけて
適切で明確に・親切な業務にと
相互信頼へ向けて業務の改善を進めてきたが

大方の市民は
窓口はワジャンカー(仏頂顔)でしか対応してくれないと
潜在的な意識として持っているのではないだろうか。

潜在的に持っている意識はなかなか変わらないもので、
両者の意識が信頼に変わらない限り、お互いの間隔は縮まらないのでは。

今回の「那覇市ハイサイ運動」は
方言の使用の普及という位置付けだけではなく
「窓口」と「市民」の協調関係も意味していると
捉えるのは、利爺だけではないと思っている

県内ではほとんど方言を使う環境では無くなってきているが
方言を卑下することなく、

「ハイサイ」には「ハイサイ」「ハイタイ」「こんにちは」
「ニフェーデービル」には「ご苦労さん」「がんばって」

と方言と標準語が混じっていても気にすることなく
挨拶が気楽にできる地域になることを。

かの童謡詩人・金子みすずの

   「遊ぼう」っていうと
   「遊ぼう」っていう。
    …
    …
   こだまでしょうか、
   いいえ、誰でも。


               『こだまでしょうか』

のような
「優しい気遣いのある市民(県民)のための窓口」
「方言文化を大切にする那覇市(沖縄県)・那覇市民(沖縄県民)」
環境・生活圏が築かれるだろう。



posted by 利爺 at 04:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年01月29日

卒業式の唱歌「旅立ちの日に」

もうすぐ卒業のシーズン。

夢と悩みの多い季節でもある。

去った1月22日、
最近の卒業式で唄われている「旅立ちの日に」を作詞した
小嶋登氏が亡くなったというニュースがあった。

  参照 ⇒ yahooニュース(国内) 
       yahooニュースでは、保存期間が過ぎ、記事が表示出来ません。
       
約20年前、小嶋氏の勤める「埼玉県秩父市立影森中学校」の3年生を贈る会で、
その詩と曲が初めて披露され、その後に音楽教師向けの専門誌に掲載され、全国の学校に広まったという。

はじめて披露された時の動画には
先生方が卒業する3年生を前にして「旅立ちの日に」を
心を込めて唄って姿が残っている。

同校には、その歌詞を刻んだ歌碑が建立され
さらに秩父市は全国的に広まった「旅立ちの日に」の発祥を記念して
「旅立ちの丘」を公共公園として整備しているようだ。

その「旅立ちの日に」がどの様な曲であるか分からないが、
今の20代の若い方たちとそれに続く生徒たちには
卒業式で唄う歌の定番だという。


ニュースの3日後
25日の県紙「沖縄タイムス」に次のような記事が掲載された。

    aoge01.jpg
    ▲ 画像をクリック。元画像が開きます。

利爺の年代では、
小学から高校の卒業式で唄われたのが、この「あおげば尊し」と「蛍の光」である。

「あおげば尊し」は詩の内容や曲調からして
日本の歌だとばかり思っていたが、外国、それもアメリカの歌だと初めて知った。

140年も前、1870年代に作られた曲だと言う。

テレビのニュースで原曲の一部を聞いたが、割とアップテンポの曲であった。

曲調を編曲し日本の歌詞を用いたのが、その「あおげば尊し」。

1884年(明治17年)発行の『小学唱歌集』第3編より収録されたのが
唱歌としての始まりであるようだ。

歌詞は

------

 仰げば 尊し 我が師の恩
 教えの庭にも はや幾年
 思えば いと疾(と)し この年月
 今こそ 別れめ いざさらば

 互いに睦し 日ごろの恩
 別るる後にも やよ 忘るな
 身を立て 名をあげ やよ 励めよ
 今こそ 別れめ いざさらば

 朝夕 馴にし 学びの窓
 蛍の灯火 積む白雪
 忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
 今こそ 別れめ いざさらば

------

最近、
この歌が卒業式で唄われなくなってきているのは
その歌詞にある

●我が師の恩
●日ごろの恩
●身を立て名をあげ

が問題となっているようだ。

 教師を崇めるもの。
 立身出世を容認するもの。
 民主主義にそぐわない。

このように国家主義と捉える風潮も有る。

確かに、この歌詞が作られた時代は、日本が欧米に学び
一日も早く肩を並べようと、必死になっていた頃で
その後、軍国主義の道を歩き始めた時代でもあるが

戦後の教育を受けた
利爺からしても

「仰げば 尊し 我が師の恩」

の歌詞には何の違和感も反撥もない。

自分の教えを受けた先生を尊敬することは、
道理であり、生き方であり、また競争は世の論理であると思っている。


その道理が置き去りにされている。

現在、「いじめ」や「体罰」「モンスターパレンツ」の
問題をたびたび耳にするのは、恩=尊敬の念が希薄になっていることに
有るのではと思っている。

「先生、生徒、その親」
の立場や関係の曖昧さが大きな要因のひとつでもあるだろう。


利爺も
小学から中学まで何度も体罰を受けた経験がある。

●宿題の提出が無い。
●遅刻をした。
●教室で騒いだ。
●何度注意をされている。

などの理由。

竹製の物差し(懐かしい表現ですね!)で両手の甲をたたかれ、
その跡が真っ赤になって
親に「どうしたのか」と聞かれることもたびたびあった。

「先生に叩かれた」と答えると

親の言うことは決まっていた。

「それはお前が悪いからだ!」

親は「教育と躾」を学校に一任していると言う考えを持っていたし

また叩かれた本人も「その理由」をよく分かっていた。


高校の同期生で
月に一回、親睦を兼ねて卒業以来45年余も続けている模合(モアイ)があるが

その場で、教えを受けた先生方の話がでることが多い。

比較的に話題になる先生は、
当時、生徒から「怖いと思われた先生」が多いように思われる。

話題になるのは、体罰を受けたからとかの次元を超えている。

叩く理由、叩かれた訳が
明確に「消化」されているから
卑屈になっての恨みつらみの話は出てこない。

仲間内では
「お前は叩かれて当たり前」となることも多い。

骨折や入院をする、精神的に追い込むなど、
度を過ぎる体罰は決して認められないが、

道理を説く、社会性を諭す、ことで叱る程度の軽い体罰は、
「心の傷はならないだろう」と思っている。

利爺は教育者としての経験もないので
学校現場の「いじめ」や「体罰」「モンスターパレンツ」の問題など
を軽々しく口にすることは出来ないが、

先の卒業式の歌
「旅立ちの日に」や「あおげば尊し」の根底に流れる
「ものの道理や考え方」を
理解しようと言う気持ちは持ち続けているつもりである。


「歌声の響く学校」にしたい。

「卒業する生徒たちのために、何か記念になる
世界にひとつしかないものを残したい」


との思いから作詞・作曲されたと言う「旅立ちの日に」。

ネット上に、その歌詞があった。

------

 白い光の中に 山並みは萌えて
 遙かな空の 果てまでも 君は飛び立つ
 限りなく青い 空に心ふるわせ
 自由をかける鳥よ 振り返ることもせず
 勇気を翼にこめて 希望の風に乗り
 この広い大空に 夢を託して

 懐かしい友の声 ふとよみがえる
 意味もない いさかいに 泣いたあの時
 心通ったうれしさに 抱き合った日よ
 みんな過ぎたけれど 思い出強く抱いて
 勇気を翼にこめて 希望の風に乗り
 この広い大空に 夢を託して

 今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
 はずむ 若い 力信じて
 この広い 大空に

------

「あおげば尊し」とは異なり

ともに机を並べて学んだ友人、同級生と居る位置(目線)からの
心を込めた思い、素直な気持ちを表現する詩になっている。

友人を思う気持ち、先生を尊敬する気持ちを
縦の側面から見ようが、横の位置から見ようが

両歌詞とも、同じ気持ちを持つ「軸線の上」にあると思っている。


幾世代に亘って受け継がれてきた、人を大切にする、尊敬する道理を
間違いなく皆な同じように持っているだろう。

それを認識する基点が「卒業式」には有ると言える。




posted by 利爺 at 23:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月23日

琉球王国民は中国出身

県紙「沖縄タイムス」(平成22年9月22日)に信じがたいニュースが掲載されている。


      100920.jpg

中国紙「環球時報」に書名入りで論文が掲載されたという要約記事がニュースとして流れた。

内容は

「琉球王国住民の大部分は福建省、浙江省、台湾の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだった」

「住民の75%が日本からの独立を望んでいる」


と断定しているようだ。

この沖縄タイムス紙の「環球時報」の要約記事を読んだ沖縄県民は
開いた口が塞がらないだろう。


琉球王朝の歴史の中で
中国の血をひく王族は見あたらないし、構成していた武士団も沖縄人が主体である。

まして、地方に住む人々には、中国の血筋は殆ど見られない。

中国のビン人が王府の政治に参加したのも17世紀くらいからで、それ以前は沖縄人が主体となって国家を経営していたのは歴史の事実である。

  参照 ⇒ ビン人36姓       
       http://jyujyu-home02.seesaa.net/article/164022184.html

沖縄県を血筋の流れを、こだわった考え方でみていくと
化石人類の山下洞穴人や港川人、本土の縄文・弥生人、船を利用した貿易人、あるいは幾多の戦乱による日本本土からの南下集団、それに中国のビン人などの流れが幾重にも重なって見える。

最近のミトコンドリアDNAからも面白い流れが発表されている。

日本人の基層構造の考え方(南北の縄文人、近畿を中心にした弥生人)の二重構造が
ミトコンドリアDNAでは、北と南は別の流れと言う見方が強く、沖縄人は台湾とも中国とも異なり、むしろ日本人の流れが強いと言われている。

その件については、いずれの機会に。

福建省から来たビン人は、久米に住み、中国宛の文書の作成や航海の船員を務める立場で、王府の協力者でしかなかった。

また琉球方言の根っこは日本古語が多いと言われ、純然たる日本語で
中国語が外来語としてわずか入っているに過ぎない。

歴史上、村々の話し言葉で中国語を使っていた事実も無い。

公文書(対中国)には漢語で書かれているものが多いが、それはあくまでも対外文書であり、そのため久米のビンの血を引く人たちが重宝されてきた事実はいがめない。

1531年から収集された、沖縄の民間の古謡「おもろ」(うむい=思い)は「おもろそうし」として編纂されているが「漢字交じりのひらがな表記」が主体で、そこには漢語は存在しない。

おもろの一例

  勝連わ 何にぎゃたとえる → 勝連は何に例えようか
  大和の鎌倉にたとえる   → 大和の鎌倉に例える

  注)勝連とは沖縄本島の中部、勝連半島に所在する「世界遺産・勝連グスク」を指す。
    この「おもろ」は第一尚氏が、中山・北山・南山を統一(1406)する以前の古謡で
    あると言われている。
    

民間で謡われていた「おもろ」では「勝連」を称えて、
その繁栄ぶりを「大和の鎌倉」に例えているが

琉球王国民が福建省や浙江省の出身で有ると言うのなら、
何故、当時の「明」や「清」の都「北京」に例えなかったのか疑問であり、矛盾が生じてくる。


1650年に完成した沖縄の歴史書「中山世鑑」も漢字交じりのひらがな表記。

ただビン人の血を引く「三司官」蔡温の父の蔡鐸が中心となって編纂した1697年の「中山世譜」は漢語表記になっているが、「中山世鑑」を漢訳したもの。

内容は「中山世鑑」と同じである。

18世紀には、王府内でも平敷屋事件などのように「親日派」と「親中国派」の争いも見られる。


中国紙「環球時報」は中国共産党系の新聞だといわれる。

「尖閣問題」に関する報復と取れる一連の中国政府の動きをみると、尖閣問題は中国政府が介在した官製の事件だったのかと疑いたくなる。

「環球時報」の沖縄の記事には、謀略が隠れていると思うのは考え過ぎだろうか。

とくにこの記事のような内容を、堂々と新聞を使って、あたかも政府見解のように13億国民に知らしめる手法は、中国の社会では常套の手段である。

世論として浸透したあとに「尖閣」の領有権
および「沖縄県」(琉球王国)は中国の属国だったと
日本に対して主張してくるだろう。


利爺は
国粋主義者でも反中国でもないが、

中国が国力、軍事力で周辺諸国を脅す国。

「中華人民共和国」の名前のとおり、
「中華」思想を発動する国だと結論付けられても致し方の無いことである。


筆者は「在日中国大使館勤務の経験のある商務省の研究者」

何を研究しているのだろうか。
琉球史を手にしたことがあるのだろうか。

間違ったことが、
堂々とまかり通る国ってなんだろう。


インターネットの普及により
官製の情報しか入手できなかった中国国民もある程度、近隣諸国からの情報を掴むことが出来るようになってはいるが、

大方の中国国民は

中国共産党支配のもとに情報統制をされ、「反日」に押し流されている現状は
党に対する反撥や不満の矛先を日本に向けることで「ガス抜き」として利用されていることも
考えていないだろう。


ここ何年かの間に、この論文をもとにして、

「反日」 ⇒ 「尖閣領有権」 ⇒ 「沖縄問題」 ⇒ 「経済水域の権利」

まで拡大されるだろうと思っている。

記事の背景には、そのような陰謀・策略が見え隠れする。


現在、ビン人の流れをくむ沖縄県民の一部(1万人未満といわれている)の人たちは、
明らかに「日本国籍」をもった日本人として生活していて、600年前に中国から来たことが問題にされることは決して無い。

世界に出て行った「華僑」とは
考え方や立場が全く異なっていることは明白である。

隣近所の誰がビン人の末裔であるかも分からない。

そのビン人の末裔である人たちが中国に行き
仮にスパイの容疑で逮捕されたとき、
中国政府は同胞として処罰の対象外にするのか
それとも日本人として処罰するのか確認してみたい気もする。

間違いなく日本人として処罰されるだろう。


記事文中の
「住民の75%が日本からの独立を望んでいる」

筆者の空想の産物であり「根拠」も無いことだ。

独立闘争があったなんて130万県民は誰も知らないことである。

ましてや
米国支配から沖縄県への道(本土復帰)は、
県民総意であった事実は歴史が語っている。


歴史を歪曲しても「事実」ははっきりしている。

この論文と記事は

日本国民、沖縄県民が中国の「謀略の手法」

つまり謀略打ち方、その手順、打つ段階が

ハッキリ見えてきたことを意味づける上で、すごく重要な記事になっている。


追記:参照
●中国の学者 「沖縄の主権は中国に属する」と叫び始めている
http://www.news-postseven.com/archives/20101003_2276.html

●「沖縄では住民75%が日本からの独立希望」と中国紙報じる
http://www.news-postseven.com/archives/20110125_10923.html



タグ:尖閣 琉球 王国

posted by 利爺 at 20:25 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月20日

尖閣諸島は中国領

那覇市、とくに久米町近辺には中国関係の名跡がある。

一は孔子像(戦後、台湾から贈られた。もとの孔子廟はこの地にあった)

二は孔子の教えを伝える至聖廟(しせいびょう)。
 日本最南端の孔子廟で、孔子の他に四配(顔子、子思(孔伋)、曾子、孟子)の像が祀られている。

三は天妃宮跡(海神を祭る)

四には同じ久米町にある中国福建省福州市との友好を示す福州園。


琉球の歴史では、中国「明」のころに福建省から技術集団を招聘し、当時の先進文化を学んだ史実がある。

いわゆる技術集団、ビン人36姓が住んだのが現在の那覇市久米町、
クニンダや唐栄とも呼ばれている。

 ●ビン(門構えに虫)とは中国福建省を指し、ビン江の流れの元、省都・福州市がある。
  おそらく福建省の人たちは「ビン」と表現されるのを嫌うだろう。
 
 ●ビンは漢人からみた南の未開地域にたいする卑称。文化ももたない異民族の意味を
  含んでいる。

 ●ビン人36姓は北京などから戦乱のためビンまで逃れてきた漢人(客家=ハッカ)が
  多いという研究者もいる。


当時の久米は那覇港に位置する一つの小島で、沖縄の統一王朝の第一尚氏(1406)が首里に王都に定めてから、中国との朝貢貿易の窓口の中心地になっている。

600年前に渡来したその36姓の子孫が県下にはいる。

沖縄における「清明」(シーミー=沖縄方言)など祖先を敬う行事などは、ビン人の習慣だったようだ。

文化的には、ビン人が果たした役割は大きい。


上記のような日本(沖縄)と中国の友好な流れの中

去った7日(2010.09.07)から尖閣諸島問題で日本・中国の関係がギクシャクしている。

その問題は
尖閣諸島の久場島(くばじま)の北北西約12キロの日本領海内で、違法操業の疑いがある中国のトロール漁船を、哨戒中の海上保安庁の巡視船が発見し、漁船は巡視船2隻と接触しながら逃走した漁船の船長を、公務執行妨害、漁業法違反(立ち入り検査忌避など)の疑いで船長を逮捕したことにはじまる。

日本の領海内での中国漁船の違法行為を日本の司法の元で逮捕したことを、中国は尖閣諸島は中国領だと言い切り、不当逮捕だとの世論を展開している。


尖閣諸島問題の領有権を中国が打ち出してきたのは、沖縄県の復帰間近の1970年のころからだと記憶している。

主張の根っこにあるのは、海洋資源と埋蔵エネルギーの問題だと日本国民は誰でも理解しているし、尖閣問題は中国のごり押しだと分かっている。

今回の中国側の対応を見ていくと
「中華」と自惚れている国の「無理強い」と「ごりおし」、欺瞞に満ちた論点のすり替えや準備周到たる「謀略」「したたかさ」が目に付く。

ものの考え方の根っこが、確実に「我々日本人」とは異なる。

謀略は中国何千年の歴史の中でも当たり前であるし、その中で生きてきた中国の人民の考え方においても悪いこととは思っていないようだ。

中国では「呉と越」(呉越同舟・臥薪嘗胆)の物語が人気歴史小説であるといわれていることも、気質から見ればうなづける。

「歴史小説」と「歴史」そのものの区別も付かない国民なのかといかぶる気持ちになる。

また謀略は小気味良い事件解決の方法と思っているのではないかと思わずにはいられない。

国家のトップに立つためには策略をもって引きずりおろし抹殺すことが当たり前のことで、
それが国民的には悪いこととは思っていないようにも感じられる。

日本人にとって「情報」は自分の手で掴み、自分で判断することが当たり前で、国に対しても自由に意見をいえる「言論の自由」があるが

共産党支配の中国では、国家の出す「情報」に国民が引きずられることは明白であるし、情報操作の恐ろしさを感じる。

歪曲され、上手く操作された「情報」を鵜呑みにして破壊活動に走る国民性は、

事実以前に「感情」で動く国民という感がする。

今までの一連の施政者による「権力闘争」の流れ、
紅衛兵の問題、文化大革命や天安門事件からも読み取れる。

改革開放を打ち出し、特異な「一国二制度」と経済特区の政策が上手くいき、
世界のトップクラスの経済大国になった中国ではあるが、

中国は、
あくまでも「中国共産党の支配した社会主義国家」である。

国を方向付ける、民意を反映した「憲法」の上に
それ以上の力を持つ中国共産党が陣取っている。

施政者を選ぶ「選挙」などないことは明白で
「法治国家」というより、まさしく「人治国家」である。


尖閣問題がどう動くか、日本国内は成り行きを見守っている状況だが

おそらく中国は「中華思想」を大上段に振りかぶり、軍事力を背景に日本に迫ってくるだろう。

その結果が
「世界を秩序を乱す我儘し放題の国」と見られることは間違いないだろうし、

アフリカや近隣諸国で行っている「経済援助」の根底には中華の思想があることが
いずれ露見して「世界の孤児」になることも目に見えている。

友好関係にある沖縄県民でも
中華人民共和国の「拡張政策」は、昔も今も変わらない事実であると政情判断はできるし、

今回の尖閣問題は、人間の個人的な意見や考え方を超える民族の憎しみの大きさが内在する事象の一例であることを、確認する機会になったと思っている。





posted by 利爺 at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年11月11日

孔子の子孫200万人

中国の「三国志」が好きな日本人は多い。

三国志は歴史を背景とした「歴史小説」ではあるが、今でも圧倒的な人気をほこり、最近では「レッドクリフ」の大作映画も公開された根強い人気の歴史ドラマである。

漢(後漢)帝国の末裔「劉備玄徳」と、血を分けた兄弟にも類する「諸葛亮孔明」「関羽雲長」「張飛翼徳」らを中心としたストーリーの展開には、この利爺の年代でも心沸き立つものがある。

利爺は横山光輝の「漫画本」(?)を全60巻揃えている。

三国志の時代から1700年余も経ているが、延々と語り継がれてきた歴史的出来事は素晴らしいものではある。

その時代より遡ることさらに800年、今から2500年も前に中国で偉大な思想家が生を受けている。

良く知られた「孔子」である。

孔子の教え「儒教」は、中国はもとより日本、沖縄まで影響を与え、利爺の住む那覇市には孔子廟と銅像が立っている。

孔子に関する中国の最近の情報によると
子孫が200万人になったと報じている。

以下引用

中広網は24日、孔子(紀元前551−479年)の家系図『孔子世家譜』の大改訂が同日午前に完成したと伝えた。    

これまでの『孔子世家譜』に記載されている氏名は約60万人だったが、今回の大改訂では大幅に増え、200万人になった。

以前は記載されなかった女性や、過去の婚姻などにより少数民族に分類された子孫、さらに海外在住者4万人も初めて加えられたことが理由という。

  ※中広網(CATV NET)=中国のケーブルテレビ局,


利爺は、ネットで最新の情報を調べるのが楽しみである。

自分の好きな時間でニュースや色々な情報がすぐ調べられ、その場で利用できる利点があるからである。

孔子に関する記事があったのでチェックしてみたのが
そのニュース。

紀元前500年に生まれた孔子の子孫が
今では200万人もいるというニュース。

日本における大都市の名古屋市の人口と
ほぼ同じくらいの子孫がいることになる。

那覇市の人口が約31万人。その6倍強ということだ。

沖縄県の人口約130万人…より多い。

2500年のあいだで
孔子に血縁的に繋がる人たちがそれほども存在することにも驚きである。

日本の一般的な家族は、両親と子供たちを入れて仮に4人。
つまり、父親・母親と子供A、子供Bで4人。

その子供たち一人ひとりから
仮に2人づつの子供を授かると計算して、

孫の世代で4人。(人口では6人)

ひ孫で4×2=8人。

さらに…、

の様な単純な考え方では計算できない長い年月だ。

現代までの期間では、
その中には結婚することなく亡くなった方もいるだろうが、
子孫が200万人。

日本では、
その孔子の流れとほぼ同じくらいの
歴史年月(皇紀)をもっていると言っている
日本の天皇の血筋も200万人位いることになるのだろうか。

逆に
子供の両親にはお互いに両親がいるし、その親にはまたお互いに両親がいることを考えたら、血の繋がった祖先は逆三角形に増えていくことになるのかという考えも湧いてくる。

自分を中心に祖先や子孫の三次元的な構図では
円錐を二個、先の尖がった方を接続したイメージになる。

その円錐形が無数に絡み合ったのが、親族の形なのだろうと思ったりしている。

その考えからいくと
沖縄県の人たちは皆んな、
もともとは同じ祖先から生まれた子孫たちであり、
さらに1万年以上も前に沖縄に住んでいた化石原人の子孫であるといってもおかしくない。

と夢想したくなる。

そして
貴方も今の一点から子孫が分岐し、1000年後には血筋を引いている子孫たちが何十万人に広がる可能性を持っている…と言える。




posted by 利爺 at 16:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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